サイボウズ大阪オフィスの開設10周年を記念して、役職、経歴の異なる4人の方に集まっていただき、ざっくばらんにこの10年間を振り返ってもらった社員座談会。後編となる今回は、「大阪オフィス波瀾の10年間の歴史」を、それぞれの経験と思い出とともに、本音で語り合っていただきました。
一級のオフィスからわずか1年で間借りの身に!
東京に本社を移す前にも、サイボウズは大阪で営業していたんですよね?
1997年に愛媛県の松山で創業したのですが、人材が集まらないので、翌1998年には大阪に移転しました。しかし、大阪でも人が集まらないということで、2000年には東京に本社を移したわけです。当時、私はまだ入社していませんでしたが、おそらく未練を残しながらも全員で東京に移ったんだと思います。
それが再び、2006年に大阪営業所を出した理由は?
2002年に「パートナー制度」という販売代理制度を立ち上げて、販売に協力いただく取引先を増やしていました。この取り組みが順調で、東京本社以外にも拠点がほしいというリクエストをいただいていました。そこで、費用対効果も考えつつ、2006年に大阪営業所を開設したんです。
大阪営業所のスタート当初はどんな状況だったのですか?
最初は私を含めて3名ほどの布陣でした。手頃な家賃のオフィスを見つけたんですが、「いい場所にオフィスを構えないと、いい人は集まらない」と当時の監査役の方から指摘を受けて、その物件はあえなく却下。結局、肥後橋にある高額なオフィスを借りました。ところがその1年後に、今度は当時の営業本部長から「家賃が高すぎるんじゃないか」という指摘が入ったんです。思ったような成果を上げていないというのはあるにせよ、それはもう落ち込みました(笑)。
心中察するに余りありますね。
そうなんだよ。サイボウズは当時、ちょうど大阪にも子会社ができていたんで、西中島にあるその会社に格安で間借りすることになったんです。えらいグレードダウンだし、間借りですからとにかく肩身が狭かった(笑)。
所内のモチベーションは保てましたか。
私以外は完全にモチベーションが下がってましたね。というのも、一級のビルと雑居ビルの違いはトイレなんです。トイレが汚いって、散々私が文句言われましたから(笑)。
うちだけの空間じゃなくて、同居してたんですか?
そう、パーテーションで区切ってるだけのまったくの同居。同居先がイケイケの営業コンサル会社だったので、朝から社訓読んだりして、とにかくにぎやかなんですよ。
いつの間にか社名が架け替わっていた!?
その後はどうなったんですか?
実は2008年に、私はサイボウズから同居先の会社に出向することになり、その代わりのタイミングでやってきたのが玉田です。
当初想定していた結果が出ていなかったので、大阪のパートナー営業から事実上撤退し、直接お客様に製品を提案する活動を試してみようということで、引っ越しのタイミングで大阪オフィスに異動しました。
パートナーさんからは苦言を呈されましたけどね。
なぜ自分たちを飛び越えてやるんだと?
パートナーさんにしてみれば、当時の私はパートナー制度を中止するために大阪にきたヤツという印象かもしれませんね。その後、サイボウズ総合研究所というSIの子会社があって、私を含めてそこに出向することになったんです。
となると、サイボウズ本体は?
サイボウズ大阪営業所から、いつの間にかサイボウズ総合研究所に、看板が架け替わってました。
当時、私は東京の営業部にいたんですが、サイボウズのメンバーはいるのに、いつの間にかサイボウズ大阪がなくなっていた感じでした。
現在はどんなことでも必ず細かく会社が説明してくれますが、当時はまだそういう風土がなかったんですよね。
労働時間もかなり長かった時代ですよね。
大阪営業所なんて3人しかいないから、本当にやばかった。毎日終電で帰るか、泊まって寝袋で寝るような生活。
離職率が30%近くあったころですよね。
夜の11時に会社を出て、ラーメン食べて帰るみたいな感じでした。
ぼくはそういうの違和感ないです(笑)。
クラウドサービスの発売を機に営業にも変化が!
事務所はどうしていたんですか?
東三国に小さな事務所を借りて、再スタートです。2011年にクラウドサービスの「cybozu.com」がリリースされ、さらに「kintone」という新しい製品が出たことで提案の幅が一気に広がり、扱えるパートナーさんを増やそうという機運もできてきましたね。
大阪営業所を出すことになった当時は、拠点のことはそれぞれの拠点でやるというのを原則にしていたので…。本社の状況も全然わからなくて、これは拠点側にとってめちゃくちゃつらいことなんですね。それが改善されてきたのが、2011年ごろです。その取り組みが功を奏して、激しかった人の出入りも定着するようになりましたね。
開発の拠点が大阪にやってくる!?
その後、大阪にも開発拠点が移ってくるわけですね。
ぼくは就職活動していた頃、地元の大阪で働きたい気持ちがありましたが、当時大阪でおもしろい開発ができそうなIT企業は少なく、東京で働くことを選びました。でも、家を買ったり子育てをしたり、親の面倒を見るということを考える歳になって、永住するならやっぱり大阪がいいと考えるようになったんです。そこで、2013年のある日、開発部長に大阪に帰りたいという話をしました。するとその日のうちに社長までその話が伝わったみたいで、「大阪に開発の部署をつくるぞ」というメッセージがきました。そこまでの相談をするつもりはなかったんですが(笑)。
彼は当時、開発の現場のエースだったんです。大阪に行くということは辞めるということでしたから、その日のうちに社長も決断したんだと思います。でも、営業所と比べてずいぶん扱いが違うし、「速っ!」と思いましたよ(笑)。
いや、でもそんなふうに対応してもらって、本当にありがたいことだと思いました。とはいえ、じゃあ誰かがその話を具体的に進めてくれるのかというと、実際はそうでもなかったんで、これは自分で進めるしかないなと。
どのように進めていったのですか?
別の用事で大阪に出張したついでに、たまたまグランフロント大阪という複合ビルを見学する機会があり、後日、出張報告書に見学の件も書きました。他にも候補はあったと思いますが、最終的にそこに決まりました。
おしゃれなビルだよね。
で、2014年に2人で大阪開発部を立ち上げました。
大阪営業所としては、どう感じていたのですか?
当時、ゲーム会社が給料をつり上げてエンジニアを引き抜いているのを苦々しく思っていましたし、営業はモノが出てこないと話になりませんから、エースエンジニアを引き留めるために大阪にも開発拠点をつくるというのは、非常にいい話だと思っていました。
最初から営業と開発が同じオフィスで働くという選択肢はなかったのですか?
営業所はスペースに余裕がなかったんです。
開発としては、大阪は東京のようにライバル会社が多くないので、そのメリットを活かして大阪をエンジニア採用の活動拠点にしようということになりました。1年後にはオフィスも手狭になっていたので、移転を急いでもらうことにしたわけです。
営業所のスタッフも増えつつあったので、いいタイミングで引っ越しできたと思います。営業活動や採用のことを考えても、やっぱり梅田は理想的な立地ですからね。
めっちゃ高い家賃を払えるように頑張るだけ!
それで大阪独自のマーケティング機能を持たせて、梅田にオフィスを移転するわけですね。
私は結婚を機に大阪に異動したんですが、営業と開発が一緒になるということで、サイボウズというブランドにプラスして、関西という地域色を出したブランディングやプロモーションの必要性も出てきました。認知を広げ、営業の後押しをし、採用面でのメリットを出すには、やっぱり地元で身近に感じてもらうことが大切なので、今までなかった機能を立ち上げました。今はようやく活動が軌道に乗ってきましたね。
最後に、今後の大阪オフィスの展望をお聞かせください。
今の状況は私が2006年に大阪営業所を立ち上げたときに思い描いていた、まさに〝夢の状態〟だったんです。開発がいて、マーケティングがいて、大きな会議室もあるいいオフィス。それを夢見てスタートしましたから、私には大阪オフィスをこれ以上大きくする能力はありません(笑)。
素晴らしいオフィスに引っ越して一種の達成感はありました。ただ、そこで止まってしまったのでは成長がないので、自分がサイボウズに入ったころの東京のオフィスの感じを、こっちでも再現できたらいいなと思いますね。
夢の状態がかなったと言いましたが、経営側の立場で言うと、ここは家賃がめっちゃ高いですからね(笑)。成長していかないと維持できません。
そうですね。人も情報も集まる大阪らしさを出したオフィスにしていきたいと思っています。ばりばり稼ぎます(笑)。